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私の「競う」を書いてみようという気になったのは、アメリカを一ヶ月旅したときに、車での移動が二千キロほどありましたが、その時に感じたのは米国では車社会が「譲る」が基本と感じたのに、日本に帰国してたまに車に乗ると、「先を争う」であることに気づきました。どうしてこうなっているのかを考えたから書きたくなったのです。

元々、「争う」と「競う」は違いますがその違いも考えたことのひとつです。私は、小学時代から中学卒業時にたいへんな貧困生活でしたから、教頭先生に云われて中卒の就職を目指し、四社の入社試験に全部失敗し、奨学金で高校を卒業しました。大学入試など選択の余地がなかったのでその経験がありません。即ち、大学入試という人生で最初の大きな競争生活を免れました。多くの同輩はその競争生活を経験していますが、後にその競争が無意味であると自分は気づいたのです。

有名大学卒業はその後の就職に有利であるとの理由が大半で、本来の学識を身に付けることは付随項目でしかないと理解しました。有名大学に入るための競争は社会的に正当化されていますが、元々、その大学を卒業しても、就職先が優良企業であっても、その人の人生の豊かさとは無関係です。

この、正当化された無意味な競争が、日本人の「先を争う」のひとつの原因だと思います。先を争っても、ろくな事は生まれないのに先を争う。愚かなことです。

広辞苑で「競う」は「互いに他より先になろうと争う。張り合う。競争する」とあります。同じく「争う」は、「互いに自分の気持ちを通そうと張り合う。敵対する。競争する」です。争うには敵対が含まれるが競うには敵対は含まれない。

私は敵対する「争い」は大嫌いです。一方「競う」ですが、私自信が他の人と何かを「競う」事は好きではありません。しかし競うこと全てが嫌いではない。人間には闘争本能があって、それが災いにもなり、社会の発展にも寄与しています。またスポーツ競技のように競うことが楽しみのひとつでもあります。

「競う」が一概に善悪のどちらかなどと思っているのではありません。ただ、自分と他者が競ってその勝利を味わうというのが好きではない。ヨットもレースはしません。自転車もイベントに出るのは勝つことが目的ではなく、皆さんと走ることが目的です。これは有名大学の入試で合格して競争の勝利を味わっていないからだと思うこともあります。

好きなのは「自分が自分と競う」こと。例を述べれば60歳にして英語の習得を続けているのは、昨日の自分より明日の自分が優れる事を、自らが自らに競っているからです。英語に限らず、昨日までできなかったことができるように変わると云うことは、自己挑戦そのもので、戦いを挑む事は広辞苑にある「競う」の「互いに他より先になろうと争う」だと思います。

仕事で他社と競うことは日常茶飯事。これは自由主義社会で生きるための必須条件です。この競いは楽しいことも苦しいこともありますが、何が楽しいかと云いますと、お客さまの成し遂げたいことを、自分たちの技術力を最大限引き出して、実現してあげること。また、実現できた時の創るという喜びが楽しい。

結果として他社と競って当社が優れているから、良い仕事に巡り会えるという好循環が生まれます。でも、そうは簡単に最大限の技術力を発揮できない。そこに、もがき苦しむ自分がいて、その苦しみは私生活にまで競争を持ち込みたくないという気持ちが、レースなどに出ない事に結びついています。

「争う」が嫌いでも、争いに巻き込まれたことは何度かある。これも巻き込まれれば、避けて通れませんから裁判まで行ったことは何度かあります。でも、「争う」事で残るものは何一つありませんから、これは大嫌い。裁判でなくとも「先を争って」人より前に出て生きることも「争う」のひとつで、「競い勝つ」ために、なりふり構わず勝ちに行くような行為も、私には、「先を争う」と見えます。

立派に戦う人は敵に塩を送ります。花道を造ることだってあります。なりふり構わず「競い勝つ」という心境には、そんな余裕は無いでしょう。先を争っても何一つ良いことは生まれない。愚かなことです。
  

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